たび小町produced by クラブツーリズム

たび小町 produced by クラブツーリズムたび小町 produced by クラブツーリズム

時代をつくった列車たち

  • 推したび

  • 見る・知る

  • 遊ぶ

  • 食べる

日本のレジャーが定着する背景には、いつの時代にも乗るだけでワクワクするような列車がありました。今の観光列車やコンセプトトレインの原点ともいえる、時代を切り拓いた鉄道の歴史を振り返ってみましょう。

箱根登山鉄道 〜リゾート開発の先駆け〜

pixta_11213022_M.jpg箱根登山鉄道 あじさい電車

明治維新後に進められた鉄道の敷設計画は、江戸時代に栄えた街道の宿場町に大きな影響を与えました。小田原もその一つで、当初は東海道線の延長計画に含まれていなかったため、箱根への湯治客の足が遠のくことが懸念されていました。そこで、地元有志たちが発起人となり、小田原馬車鉄道を設立。明治21年には、東海道線の国府津こうづ停車場前と箱根湯本の旭日橋前の間、約13㎞を結ぶ営業を開始します。欧米から購入した車両を馬車が引き、湯治客からも人気だったといいます。
評判は上々でしたが、馬を約80頭抱える必要があり、飼料コストが経営を圧迫していたため、やがて電気鉄道の敷設を目指すようになります。それはただの電気鉄道ではなく、「天下のけん」と呼ばれた急勾配を上り、箱根に観光誘致するための登山鉄道。スイスをはじめ欧州の登山鉄道を視察し、当時の日本で唯一の登山鉄道としてスイッチバック式を採用。大正8年、箱根湯本〜ごう間約9キロの運転を開始した。
景勝地箱根を走る登山電車の反響は大きく、乗客は急勾配のスリルと、車窓からの展望美に夢中になったとか。貸自動車で同区間を走ると7円50銭掛かったところ、登山電車は84銭という手ごろな料金。それまで比較的裕福な人の別荘地だった箱根が、庶民に身近な観光地として発展することになります。

週末温泉旅行 〜箱根を目指した温泉列車〜

pixta_28940257_M.jpg小田急ロマンスカー

箱根が日本屈指の温泉リゾートに発展する過程で、大きな役割を担ったのが小田急電鉄です。ただ、会社の設立時期が金融恐慌、世界的な不況と重なったため、船出は決して順風満帆とはいかなかったよう。さまざまな打開策が検討される中に箱根への観光客輸送増があり、その一環として、週末のみ新宿と小田原をノンストップ運行する列車のアイデアが浮かびます。
そして、昭和10年から運行が始まったのが「週末温泉特急」。車内では当時の人気スターが吹き込んだアナウンスが流れ、車窓から見える風景の説明や名所名跡の由来などを紹介しました。この企画性あふれる列車が現在のロマンスカーのルーツとされています。
戦後、復興への希望を乗せて走った「復興整備車」も、新宿と小田原を結ぶ特急列車でした。週末のみの運行、座席には白いシーツをかけ、スタンド式灰皿を並べただけの車両でしたが、当時はそれが精一杯のサービスでした。
小田急が公式に「ロマンスカー」という愛称を使ったのは昭和24年、新型車両を導入してからのこと。諸説ありますが、戦後の映画館で使われた2人掛けの「ロマンスシート」が命名の由来とされています。車内に喫茶カウンターを設け、飲み物を販売するサービスも開始し、「走る喫茶室」と呼ばれたこの車両が現在に続くロマンスカーの原点。翌年には箱根湯本までの乗り入れを実現しました。そして展望車の設置、ビール樽を積み込んで江の島まで往復する「納涼ビール列車」の運行など、さまざまなサービスで人気を博していきます。
その後、ロマンスカーの名前を広く世に知らしめたのが、流麗なデザインとバーミリオンオレンジで彩られた車体が特徴的な昭和32年に登場したSE(3000形)です。この車両、国鉄が東海道本線で行った高速走行試験に採用され、当時の狭軌における世界最高速度記録(145㎞/h)を樹立しています。この試験結果は後の東海道新幹線開発にも生かされました。ロマンスカーは新幹線時代幕開けにも一役買っていたのです。

山陽鉄道 〜歴史は山陽地区から始まった〜

pixta_17736836_M.jpg山陽本線

近年、観光列車やグルメトレイン、展望列車など、乗ること自体の楽しみを追求する列車が増えています。特に寝台設備の豪華さ、快適さは驚くほどで、旅の新しい形を提案しているともいえるのではないでしょうか。では、日本の寝台車の歴史はどこから始まったかというと、明治中期から後期にかけて存在した山陽鉄道までさかのぼります。
現在の鉄道界全体に普及している設備やサービスの中に、山陽鉄道が日本で初めて取り入れたものが少なくありません。明治31年には乗客の世話をするボーイの乗務、翌年の明治32年には日本初の食堂車の連結に加え、神戸〜広島を結ぶ列車が初めて時刻表に"急行"と明記されました。長距離急行列車のはじまりともいわれています。食堂車では西洋料理、コーヒー、酒類などをかなりの品数で揃えていたそう。そして更に翌年、寝台車の導入を果たしました。その背景には、江戸時代から発達していた瀬戸内航路との競合があり、早さだけでなく快適な移動を提案することで、鉄道の時代を強く印象付けたのです。
寝台列車が黄金期を迎えるのは、戦後の動乱を過ぎ、神武景気、岩戸景気に象徴される経済成長を遂げていた頃です。長距離旅客の輸送量が増え、東京〜大阪〜九州を結ぶ特急列車の増発が求められました。そして昭和31年、東海道線が全線電化されると同時に大幅なダイヤ改正が行われ、東京〜博多間に特急「あさかぜ」が登場します。
画期的だったのは運行スケジュール(ダイヤ)で、それまでの東京〜博多を結ぶ夜行列車は東海道区間を昼行、山陽区間は夜行というパターンでした。「あさかぜ」は、東京を夕方出発し(上りは博多発)、深夜〜朝方に京阪神を通り、翌お昼前に博多着(上りは東京着)。夕方発、翌午前着という直通ダイヤは、以降の東京と九州を結ぶ夜行列車の設定に大きな影響を与えたとされています。
このダイヤはネーミングにも影響しました。計画の当初では「富士」が有力な候補にあがっていましたが、新しいダイヤだと富士山の麓に近い富士駅付近を通過するのは夜間〜早朝となってしまい、富士山が見づらい。そこで新鮮かつ爽やかな「朝に吹く風」から「あさかぜ」と名づけられました。
運行開始当初、10両編成中寝台車は5両で、当時としては寝台車の比率が高く、それも人気の理由でした。大きな変化があったのは昭和33年。それまでの列車は1両単位でその都度編成を変えるものでしたが、この年、あさかぜ専用の車両ともいうべき13両の固定編成客車が導入されます。20系と呼ばれる最新の客車が「あさかぜ」に使われることになり、ここから栄光の歴史の幕があがることになります。

寝台特急あさかぜ 〜「乗る楽しみ」の追求へ〜

pixta_5105673_M.jpg東海道本線 ブルートレイン「あさかぜ」

昭和33年10月から運行が開始された寝台特急「あさかぜ」は、よく「元祖ブルートレイン」と形容されます。そのもとになるのは、ブルーの車体にクリーム色のラインが3本描かれたデザインですが、当時の最新車両の機能性を抜きには語れません。キーワードは「冷房完備」。
一両ずつ独立した車両で編成する場合、各車に冷房装置に加えて電源装置も搭載する必要があります。それでは重量が増し、編成は短くせざるを得ません。一方、車両の組み合わせが変わらない固定編成の「あさかぜ」は、電源装置を1両に集め、そこから各車両に電気を送りました。そのため全車両で冷房を完備することができ、乗ると「朝、かぜをひく」という洒落が飛び出すほどの人気を集めたという。
この方式のメリットは他にもあります。暖房も従来の蒸気暖房ではなく電気暖房が可能になり、照明装置などの電気回路にも常に安定した電気を供給できるようになったのです。「あさかぜ」から始まった、この列車の"オール電化"はその後の列車の進化も大きく加速させていきます。「あさかぜ」にならって特急「こだま」でも調理室に電気冷蔵庫、冷水器、湯沸かし器などが登場。客車急行「なにわ」ではビッフェ車で鮮魚を扱う取り組みがなされ、食堂車はおおいに盛り上がりを見せました。
冷房完備、機能的な食堂車、そして上質な寝台スペースを持つ「あさかぜ」は、「動くホテル」「殿様列車」と呼ばれ、昭和30年代後半から40年代にかけて一つの時代をつくりました。さらに「あさかぜ」は独特のブルーの車体で「ブルートレイン」という言葉を生み出し、写真撮影を楽しむファンも増えていきました。
その後、高速道路網の整備、新幹線の台頭、航空運賃の値下げなどによって、寝台特急は次第に姿を消すことに。ただし、完全に忘れ去られたわけではありません。最近のコンセプトトレイン、クルーズトレインなど、「乗ること」を楽しむ鉄道旅の源流として、これからも語り継がれていくはずです。

車窓から、日本の山、海、里を眺めてみませんか?

鉄道の旅特集

世界の列車で旅しよう

※ツアーは終了している場合があります。

facebookfacebook

twittertwitter

関連タグ

海外旅行から国内旅行・バスツアーまで、オススメツアーが満載! クラブツーリズム