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「山車からくり」に拍手喝采

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昨年、ユネスコの無形文化遺産に登録された日本の「山・(ほこ)・屋台行事」。いわゆる「山車(だし)」は、土地の文化を映す鏡であることを知っていましたか。その典型ともいえる巧妙精緻な「山車からくり」のルーツをひも解きます

山車に降臨した神様

軽快で、どこか懐かしいお囃子はやしが響き渡り、地域の人も、旅人たちの心も躍る祭の季節が訪れます。日本の祭に欠かせないのが山車。呼び方(山、鉾、屋台、だんじり等)や形、装飾、彫り物など、文化・風習が込められた山車は、その地域の誇りともいえます。
日本各地に存在する山車の中で、巧妙精緻につくられた人形を載せるものは「山車からくり」と呼ばれます。古くから人形は神の依代(よりしろ)とされてきました。依代とは神霊が寄り付くもの(岩や樹木など)のこと。神を迎えるための祭りの山車に、依代である人形を載せたというのも自然の流れといえます。
もともと貴族や武家の観賞用だったからくり人形が、庶民に親しまれるようになったのは江戸時代初期のこと。大阪でからくり人形を使った「竹田からくり芝居」が旗揚げされたのがきっかけです。この新しい娯楽は噂を呼び、各地を興行するほどの人気を博したといいいます。やがて、上方では芸術性を追究した人形浄瑠璃が生まれ、江戸の歌舞伎にも影響を与えていきます。
一方、山車にからくり人形を載せ、独自の発展を遂げたのが東海地方。現在、全国に約300台といわれる山車からくりのうちほぼ半数は名古屋などの東海圏にあり、岐阜や富山を含めると約8割が日本列島の真ん中に集中しています。なぜ、このような現象が起きたのでしょうか。

和時計の技巧と山車からくり

和時計というものをご存じでしょうか。江戸から明治にかけて製作された時計で、ゼンマイや歯車を用いた精巧な作りが特徴です。当時の時間の概念は、現在のように一日を24等分するのではなく、昼と夜をそれぞれ6つの刻に分けるというもので、一刻の長さが時季によっては昼と夜で異なってきます。それを表す機構を持つ和時計がどれだけ精巧かは、推して知るべしでしょう。
さて、話を戻しますと徳川家康が持っていた機械時計が、あるとき壊れてしまいました。それを修理し、手本にして新たに作り直し献上したのが、名古屋の津田助左衛門という者でした。功績をたたえられた助左衛門は家康に召し抱えられますが、名古屋はその後、和時計の製作地として名を馳せていきます。
そんな手仕事の町、尾張名古屋に「からくり人形」の技術が伝わると、祭りの山車にからくり人形を載せるという発想が生まれます。名古屋東照宮が完成した年の祭礼に、下七間町が大八車を2両組み合わせ、西行桜の能人形を飾った山車を引きだしました。翌元和6(1620)年には弁慶と牛若丸が大立ち回りを演じるからくり人形を載せた橋弁慶車を登場させ、大好評となります。
これに刺激を受けた各町が競って山車を作り出すと、東照宮祭の山車は年々豪華になっていきました。そんな気運に待ったをかけたのが、八代将軍の徳川吉宗でした。財政立て直しのために厳しい倹約令を出し、質素倹約を庶民に命じたのです。
日本各地で祭りが簡素化する中、真っ向から対立したのが、吉宗のライバルとして描かれることも多い徳川宗春です。宗春は尾張藩主になると「民と共に世を楽しむ」として、娯楽開放政策に取り組みました。祭りも奨励し、京都から鶴からくりの名人として評判だった庄兵衛を呼び、山車を新調させました。翌年の東照宮祭にも呼ばれた庄兵衛は移住を決意します。町名にちなんで自らを「玉屋庄兵衛」を名乗りました。
倹約令で仕事を失った京都、上方の職人たちもこれに続きました。その結果、東照宮祭の山車からくりはより豪華なものとなり、尾張周辺で技術を競うようになったのです。初代以降、玉屋庄兵衛は山車からくりの制作や修復に携わり、現九代目まで継承されています。愛知県犬山市で行われる犬山祭では、そんな歴代の玉屋庄兵衛の技と仕事を見ることができます。

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日光東照宮と山車文化

日本の山車の特徴である豪華、そして精緻な彫り物などによる装飾。江戸時代まで各地の山車は、今ほど凝った装飾ではありませんでした。流れを変えたのは今年、平成の大改修を終えた日光東照宮。中国などから取り入れたさまざまな聖獣、動物の装飾、きらびやかな色彩が評判となり、これ以降、祭に使う山車の彫り物、色彩もどんどん凝ったものになっていきました。

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「山車からくり街道」を往く

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知多半島から名古屋、美濃、高山、古川を経て富山の新湊、高岡まで結ぶ地域は「山車からくり街道」と呼ばれ、絢爛(けんらん)豪華な祭りが数多く残っています。その基点となるのが名古屋です。先に紹介した名古屋東照宮祭は戦災によって本殿や山車が消失したため途絶えてしまいますが、流れを汲むのが、名古屋の秋を彩る「名古屋まつり」です。
伝統を受け継いだ山車からくりの中に、万治元年(1658)につくられ、奇跡的に戦災を免れた「湯取車」が登場します。まつり行列「山車揃」の際は人形の動きに注目です。

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尾張藩に隣接する三河藩も山車からくりづくりが盛んな地域です。江戸時代の人形浄瑠璃の芸術性を受け継ぐのが、知立市の知立まつり。350年以上の歴史があり、義太夫の語りや三味線の音色に合わせ、人形遣いが糸を使って人形を操る「山車文楽」が残っています。人形を、職人ではなく町の人々がありあわせの雑木や布切れを持ち寄ってつくるという伝統は、今も受け継がれています。
江戸時代に港湾都市として発展した知多半島の半田にも、波打ち際で行う海浜曳き下ろしが見どころとなる亀崎潮干祭りなど、個性的な山車からくり祭りがたくさんあります。この地域では5年に一度、市内10地区31輌の山車が一堂に介し、曳きまわしを行う「はんだ山車まつり」が開催されます。今年は開催年にあたるため(10月7・8日)、壮観な山車の揃い踏みに注目です。

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名古屋から日本海側に向かうと、そこには岐阜の高山祭があります。尾張で栄えた山車からくりの文化に、飛騨の匠の技、京都の文化風習が融合することで、他には類を見ない壮麗優美な祭となっているのが特徴です。高山祭では山車を「屋台」と呼びます。春と秋の例祭の屋台は別物で、町中を引きまわす「曳き廻し」が行われるのは秋のみとなります。

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名古屋東照宮祭に端を発した山車からくりは、地域の文化を反映しながら伝播していきます。土地の名工を取り込み、街道筋の文化を吸収し、それらが飛騨高山祭で結実すると、さらに北上して日本海沿岸に達します。北陸新幹線の開業で沸いた富山の高岡にも、特徴的な山車からくりがあります。前田利家が豊臣秀吉から拝領した、御所車形式の山車が登場する高岡御車山祭です。でんぐり返しをする唐子や太鼓を叩くサルなどの山車からくりが、生き生きとした動きで観衆を楽しませてくれます。「誰も見たことがないもの、新しいものをつくりたい」。そんな作り手の心意気が伝わってきます。

北で、南で、からくりが躍動

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「山車からくり街道」の山車は、移動用の車輪の上に人が入る「胴山」、その上にからくり人形を置く「上山」という構造が基本になります。地域によっては歌舞伎の舞台を設えたもの、船型のもの、三輪のものもあるが、東海地方から離れるほど型にとらわれない山車が見られるようになります。その象徴ともいえるのが、今から300年以上前、徳川光圀(みつくに)の命によって始まったとされる茨城県日立市の日立風流物です。
ユネスコの無形文化遺産にも含まれる山車は特徴的で、高さ約15メートル、横幅約5~7メートル、重さ約5トンの重量級。人形を操る人が約35人、お囃子が約10人乗り込み、200人がかりで曳きまわします。表山と裏山が入れ替わるのも独特で、両面にからくり人形を配置しています。表山は5層からなり、それぞれの層で鋼糸を使って操る人形芝居が行われます。
興味深いのはゴツゴツした岩山を思わせる裏山。山車は元来、神様を呼ぶために山を模して土を盛った築山が原型とされており、最も原始的な形ともいえるからです。山車は合計で4台。春の「日立さくらまつり」で毎年1台が公開され、4台すべて揃うのは、7年に一度行われる神峰神社の大祭礼。次回は2019年に予定されています。
福岡県八女市の「八女福島の灯籠人形」は、江戸中期から伝わるからくり人形芝居。もともとは各町がからくり人形の屋台を出し、奉納していたが、現在は福島八幡宮の境内に3層2階建ての仮設屋台を設置して上演されています。舞台横から操作し、人の姿を観客に見せない「横遣い人形」が残るのは国内でもここだけです。からくり人形が最も技巧化し、隆盛をみた江戸時代の様子を今に伝えています。
これから秋にかけて、日本各地で地域に根差した祭が開かれます。華やかに飾られ、技巧を凝らした山車からくりを追いかけて、祭りの季節を旅してみるのもいいでしょう。

この夏、日本の歴史的文化に触れてみませんか?

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