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魅惑の「ジャパンブルー」の魅力を味わう旅

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古来、豊かな色彩感覚を持つ日本人が、伝統色のひとつとして大切にしてきた(あい)(じろ)。明治初期に日本を訪れた外国人は、街にあふれる藍の色彩に驚いたという。「ジャパンブルー」の技と美に、改めて注目してみましょう。

外国人を驚かせた「藍」の色彩

浅葱(あさぎ)(あい)(じろ)、納戸、(はなだ)(とめ)(こん)など、「藍四十八色」という言葉があるほど日本の藍は色相が豊かで、独自の色彩文化を象徴する色のひとつでもあります。現代でも、サッカー日本代表の「サムライブルー」など、日本の伝統的な藍色をベースとしたデザインがしばしば使われています。
明治維新後、日本を訪れた外国人は、この色を「ジャパンブルー=日本の青」と呼びました。
最初にジャパンブルーという言葉を使ったのは、明治7(1874)年に日本政府の招きを受けて来日したイギリス人化学者、ロバート・アトキンソンでした。彼は「日本においては、藍を染料となし、これを使用するの量極めて大なり......全国いたるところ、青色衣装の非ざるなき......」と、驚きを持って述べたといいます。
明治23(1890)年、日本へ渡ったラフカディオ・ハーン(小泉八雲)も、「ジャパンブルー」に強い感銘を受けた外国人の一人です。『怪談』などの著書で知られる彼は、『東洋の第一日目』という文章で、日本で見た風景をこのように表現しています。
「見渡すかぎり無数ののぼりがひるがえり、濃紺ののれんが揺れている」「まるでなにもかも、小さな妖精の国のようだ。人も物もみんな小さく、風変わりで神秘的である。青い屋根の小さな家屋、青いのれんがかかった小さな店舗、その前で青い着物姿の小柄な売り子が微笑んでいる」
彼らにとって、初めて見る日本は「神秘のブルーに満ちた国」だったのです。

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時代を経て浸透していった藍染め

「ジャパンブルー」を象徴する日本の藍染めがいつ始まったのか、残念ながら正確には分かりませんが、奈良県天理市成願寺町にある、古墳時代前期の下池山古墳から出土した絹織物の青色は、藍で染めたものではないかといわれています。飛鳥時代の603年に聖徳太子が定めたとされる位階制度、冠位十二階は6つの色に分けられ、藍色は紫に次ぐ高貴な色とされました。
また、藍の染料は退色しにくく、布や和紙を染めると虫除けや蛇除けなどの効果があることも古くから知られていたようです。東大寺には藍染和紙を使った経典が伝えられており、鎌倉時代になると武士は鎧の下に黒に近い濃い藍色「褐色」を身につける習慣が生まれ、鎧を縫う糸も褐色に染められたといいます。藍には消炎や解毒、止血の作用があることと、「かち」が「勝ち」と結びつき、縁起のよい「勝ち色」とされました。

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日本の暮らしに藍染めが浸透するきっかけになったのは、室町時代に伝来したといわれる木綿の種です。それまでの衣服は麻が中心でしたが、暖かく肌触りもよい木綿の利用が次第に広がっていきました。この木綿と相性のよい染料が藍だったのです。
染色方法にも変化がありました。藍染めは古くから世界各地で行われ、藍色(青色)の色素を持つさまざまな植物が、各地の気候や風土に応じて使われてきたのです。

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日本ではタデ科の一年草である蓼藍を用い、室町時代末には藍の葉を乾燥・発酵させたすくも(蒅)と呼ばれる染料が作られるようになりました。すくもは、いわば堆肥状の原液で、これをついて固めた「藍玉」が流通しました。このようにして場所を問わず藍の染色ができるようになり、染める濃度も淡い青から黒に近い色まで、調整しやすくなりました。

もうひとつのジャパンブルー

藍染め以前にも、ヨーロッパを魅了した「ジャパンブルー」がありました。それが日本の染付磁器です。中国で生まれた白地に青の文様をのせる「青花」の技法が日本に伝わり、17世紀に有田で独自の発展を遂げました。質の高い製品が長崎オランダ商館を通じてヨーロッパに大量に輸出されるようになり、特に柿右衛門様式などの磁器は高い評価を得ました。
ドイツのシャルロッテンブルク宮殿は17世紀末、プロイセン国王フリードリヒ1世が建設した妃の夏の館で、バロックとロココ調建築の手本ともされる世界遺産です。多くの部屋の中でも、日本や中国の染付磁器がずらりと並ぶ「磁器の間」は圧巻。ベルリンに行ったら、ぜひ訪れたい場所のひとつです。

独特の技法が神秘のブルーを育む

なぜ、日本ではこれほど藍の文化が根づいたのでしょうか。理由のひとつは、前述したすくもを使う優れた染色方法が生まれたことです。藍商がすくもを作って、それを各地の染物業者である「紺屋」が購入し、必要な時期に、必要な数だけ染める仕組みが出来上がりました。
そこで大きな役割を果たしたのが阿波の国、現在の徳島県です。「阿波二十五万石、藍五十万石」といわれるほどの発展の背景には、蓼藍の栽培に、吉野川河岸の気候や土壌が適していたのはもちろん、藩による保護政策がありました。
吉野川は、台風などで毎年のように洪水を引き起こす暴れ川でした。このため周辺地域では稲作が難しかったが、氾濫のたびに上流から沃土が運ばれてくることを生かして、雨期までに収穫できる蓼藍の栽培が行われるようになったのです。

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天正13(1585)年に初代徳島藩主となった蜂須賀家政が藩の財政確保のために藍の生産を奨励したことで、その品質は向上し、産出量も高まっていきました。江戸時代にはその品質から、阿波の藍を「本藍」、ほかの地方の藍を「地藍」として区別したほど。最盛期は100を超える藍商の蔵が立ち並んだという脇町の「うだつの町並み」には、今も当時の繁栄の面影が残されています。
藍が暮らしに根づいた背景には、日本人らしい創意工夫もあります。例えば、藍をきれいに染めるのに染液の温度は25~28℃が理想とされますが、それでは作業ができるのは夏場に限られてしまいます。そこで、あいがめを4つ置き、中心にもみ殻などを焚いて保温する方法が生まれました。また、藍染めの古布を煮出して藍を抽出し、それを固めて棒状にした「あいろう」に再利用、書画や浮世絵の彩色に使ったともいわれています。
藍染めの工程が分業化され、品質向上と生産増を実現したこと。また、江戸時代に繰り返し出された奢侈しゃし禁止令の対象に、藍色が含まれなかったこともあり、衣類を中心に豊かな藍の文化が育まれていったのです。

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東と西をつないだ「ベロ藍」

日本古来の藍染めとは別に、江戸時代後期、海外に最も大きなインパクトを与えた「ジャパンブルー」があります。浮世絵です。
江戸初期に墨摺すみずりから始まった浮世絵は、18世紀半ばから多色摺りの錦絵へと進化を遂げますが、多く使われるのは黄色や朱色で青系統は少数でした。青の発色は難しいうえ、露草を使った染料は退色しやすく、藍は退色しないものの水に溶けにくいため、濃淡の表現が困難だったのです。
19世紀前半の文政期になると、ドイツで生まれた「プルシアンブルー」が日本にも普及し始めます。ベルリン藍の異名が転訛して「ベロ藍」と呼ばれたこの顔料は、鮮明な色を保ちながら濃淡も表現できるとして、渓斎英泉ら浮世絵師たちが使うようになりました。
このベロ藍で、日本独自の色彩感覚が存分に発揮されたのが風景画です。代表的な絵師は歌川広重、そして葛飾北斎。『東海道五十三次』『名所江戸百景』など、全国の名所を描いた広重の作品の多くは、海や川、湖などの水辺が取り上げられています。渦巻く海、うねる川の流れなど、多彩な表情を見せる水辺と、空の情景を合わせた表現の巧みさは、ベロ藍の特性を最大限に生かしたものでした。
北斎の『がく三十六景』にもベロ藍は多用されています。逆巻く荒波を白と藍のコントラストで描くとき、発色が強く、濃淡によって遠近感も表現しやすいベロ藍はまさにうってつけでした。北斎は藍一色の風景画も描いており、構図の大胆さと濃淡を自由に使い分けるベロ藍の表現方法は、海外で「青の革命」とも評され、ゴッホやモネをはじめヨーロッパの画家に強い影響を与えたといわれます。
美術館や博物館に行く機会も多い芸術の秋、今年は「ジャパンブルー」をテーマに出かけてみては、いかがでしょうか。時代を超えて私たちの心を打つ美しさに、きっと出会えることでしょう。

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